第2回 旧富士見高原療養所資料館と堀辰雄
療養所はS湖から数里離れたところのY岳の麓にあった。さうしてその麓のなだらかな勾配に沿うて、その赤い屋根をもった大きな建物は互に並行した三つの病棟に分れていた。それはそれぞれ「白樺」とか「龍謄」とか「石楠花」などと云ふ名前がついていた。… ――『恢復期』
突然、私の窓の面してゐる中庭の、とっくにもう花を失ってゐる躑躅の茂みの向ふの窓ぎはに、一輪の向日葵が咲きでもしたかのやうに、何だか思ひがけないやうなものがまぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したやうに思った。私はやっと其処に、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い痩せぎすな、一人の少女が立ってゐるのだといふことを認めることが出来た。… ――『美しい村』
それらの夏の日々、一面に薄の生ひ茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いてゐると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たへてゐたものだった。…
そんな日の午後(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまゝ、その白樺の木陰に寝そべって果物をかじってゐた。砂のやうな雲が空をさらさらと流れてゐた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。…
風立ちぬ、いざ生きめやも。 ――『風立ちぬ』
昨年の7月、古い友人から「俺の山小屋にこないか」と誘われ、彼のハイブリット車で諏訪湖にちかい山荘をおとずれた。途中で立ち寄ったのが、富士見高原病院だった。病棟の一角に床も壁もまさに崩壊寸前の部屋があり、それが旧富士見高原療養所資料館であった。主として堀辰雄の文学にかかわる資料が展示されていた。もともとこのサナトリウムは、おもに結核患者の療養所で、うまいものをたくさん食べ、太陽光線をたくさん浴び気長に過ごすところで、金持ちでなければ入れないところだった。
1933年軽井沢で矢野綾子と知り合って堀は『美しい村』をものする。しかし二人そろって肺を傷め、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入院する。まもなく綾子は逝き、その体験をもとに『風立ちぬ』が書かれる。
“軟弱な結核文学”の代表者ともみられる堀辰雄だが、戦中を通して自分の文学世界をまもった。このことを加藤周一は、「堀は後に、『風立ちぬ』の世界を小説的に拡大して、『菜穂子』(1941年)を太平洋戦争の始まった年に発表した。軍歌鳴りひびく街のなかで、『菜穂子』は谷崎潤一郎の『細雪』と共に、ほとんど軍国主義に対する文学的抵抗のようにさえみえた。」(『日本文学史序説 下』463頁、筑摩書房、昭和55年)と指摘している。
みんなで教会の前まで行くと、既に弥撒ははじまっていて、その柵のそとには伊太利大使館や諾威公使館の立派な自動車などが横づけになり、又、柵のなかには何台となく自転車が立てかけられていた。… 丁度、そんな時だった。私達の背後からベルを鳴らしながら、二人の金髪の少女が自転車でついと私達を追い越すやいなや、柵の入口のところへめいめいの自転車を乗り捨てて、二人ともお下げに結った髪の先をぴよんぴよん跳ねらしながら、いそいで教会の中へ姿を消した。
私達はその姉妹らしい少女らの乗り捨てていった自転車の尻に、両方とも「ポオランド公使館」という鑑札のついているのを認めた。それは丁度、ドイツがポオランドに対して宣戦を布告した、その翌日だった。私達は立ち止ったまま、もう一度顔を見合わせた。 ―― 『木の十字架』
軽井沢周辺には、たまに車を駆って行くことがある。季節にもよるが、深い森と林そしてどこまでもつづく丘陵は、そこに佇む者のこころをおだやかに慰め、ひらく。同時に、あれはなんと形容したものだろうか、どこからともなく感ずる“にほひ”。
ネットなどをみると、追分にある堀辰雄文学記念館にはいまもたくさんの愛好家が訪れているという。新しい書庫が完成する寸前に逝ってしまった堀は、日本の王朝ものをはじめ、リルケ、ヴァレリイ、プルーストなど愛読した書物が整然とならぶさまを見たかったことだろうに。
20歳前半から病気がちだった堀だが、作品はひどく少なかったというわけではない。(初期のころの作品集をみると、造本、装丁は瀟洒な、感じのいいものが多い。)34歳で加藤多恵と結婚をするが、その前後からたびたび喀血し、創作をはばまれた。41,42歳ころからほとんど床を離れることができなくなり、喀痰、高熱、めまい、視力の低下におそわれ、1953年(昭和28年)5月ついに帰らぬ人となる。49歳であった。
『新潮日本文学アルバム』をのぞくことは、私の楽しみのひとつである。鴎外、漱石をはじめとする代表的作家の生家、小学校時代から晩年まで、作品の流れを追ってエピソード的にモノクロとカラーの写真で一生を跡づける。堀辰雄集の見どころはいろいろあるが、まず生母「志気」の美しさにはっとする。一高時代の辰雄の表情もいい。八ヶ岳、浅間、軽井沢、追分の山並、森、林道は四季を通じてすばらしい。堀の山荘にはいろいろなひとが出入りしていたことがわかる。
なかでも私がもっとも惹かれるものは、辰雄の手になる原稿、手紙、はがきなどの「字」だ。のびやかで屈託がなく、ある種の豪放さを感じる。これは彼の繊細な文学世界からは想像できないものだ。若いころからの文学仲間だった中野重治は、「そういえば堀はきれいな字を書いた。―― 眺めても気持ちいい。」(中野重治全集、第19巻、359頁、筑摩書房)といっている。
清水 皓毅(しみず・こうき)
株式会社エイデル研究所 主幹
福祉経営研修センター 常務理事
北海道生まれ。中央大学経済学部卒業、産業経済関係の出版社を経てエイデル研究所設立に参画。賃金、労務管理、人
事管理等のコンサルティング、各種調査の企画実行担当。
社会福祉分野では、全社協「福祉サービス従事者の標準研修プログラム検討委員会」、同「市区町村社会福祉協議会管理職員研修カリキュラム検討委員会」、同「ボランティアコーディネーター研修プログラム研究委員会」など、福祉人材の養成研修に関する各種委員会に参画。
全国社会福祉協議会をはじめ、各都道府県社会福祉協議会および福祉施設の経営者研修などの指導、講演に従事。