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第4回 大学受験時代のゴッホ



『今朝はしなくてはならぬ勉強がいっぱいあった。これはなかなか容易なことではないと思う。これからもますます難しくなってゆくだろう。しかし、なおぼくは固く信じている。また、勉強の習慣も実践を通じて身についてくるだろうし、勉強ぶりも改善されて徹底したものになってくるだろうと思っている。』(96)

『テオよ、もし試験に合格したら、ぼくは口に出して言えぬほどうれしいよ。… だがまだあの恐ろしい代数と数学が残っている。ぼくは代数と数学を教えてくれる人を探していたが、その人が見つかった。… 神よわたくしに必要な知恵を授けたまえ。』(112)

『ぼく自身がいま受験準備中なので、試験を受けなければならぬ人たちには同情を感ずる。… 一つの社会的地位を得ようとするものは誰でも非常な困難と努力の時期を乗りこえねばならぬのだ。』(115)

 フィンセント・V・ゴッホが24歳の時、大学で神学を勉強するため入学試験の準備をするさなか、弟テオに宛てた手紙である。いまの受験生とすこしもちがわない状況である。
 ゴッホは、1853年3月30日牧師を父としオランダのフロート・ズンデルトに生まれた。
長男で、4歳下に弟テオドルス(通称テオ)ともう一人の弟、姉と二人の妹がいる。小学校を出たのち、北フラバンドの寄宿学校に入り、フランス語、英語、ドイツ語を学ぶ。中学校にすすんだが1868年3月同校を中退し故郷へ戻った(15歳)。
 1869年7月美術商のグーピル商会のハーグ支店に就職。複製画の販売にあたった。1873年6月ロンドン支店勤務となる。ロイヤー夫人の下宿で暮らす。その娘アーシュラに恋するが、かの女には婚約者がいて愛は報われない。1874年アーシュラへの失恋で生活に変調をきたす。
 1875年5月、パリ本店に転勤(22歳)。仕事に身が入らず、友人ともうまくゆかず、聖書を耽読。同時に17世紀オランダ絵画やバルビゾン派の作品にひかれる。1876年3月グーピル商会を解雇される。父の赴任地エッテンへ戻る。同年4月新聞広告で職を得、イギリスのラムズゲイト・トークスの経営する学校でフランス語、ドイツ語を教える。6月学校に移転にともない、ロンドン近郊のアイズルワースへ移る。貧民街のようすに心打たれ、メソジスト派の宗教活動に参加する。11月説教師としてはじめて説教する。
 1877年1月ドルトレヒトの書店に勤めるが、仕事には身が入らず聖書研究に没頭する。
5月大学で神学を勉強するためアムステルダムへ出る。家庭教師にギリシャ語、ラテン語を学ぶ。1878年7月大学入学を断念し、エッテンへ戻る。8月ブリュッセルの伝道師養成学校に入り3か月教育をうけるも、伝道師の資格を得ることはできなかった(25歳)。

『ぼくはすでにやった練習問題をもう一度すっかり復習したいと思っている。… 文法と動詞の基礎をしっかり身につけておきさえすれば、文章を訳することは簡単にできるようになるというわけだ。… 朝早くから夜おそくまで勉強すれば、数か月の間には大へんな量のことがなし遂げられるはずだ。』(117)

『われわれもお互いに光に向かっておのが道を静かに進もうではないか。「心を高めよ」だ。自分たちがほかの人たちと変わるところなく、ほかの人たちも自分たちと同じであることを知り、お互い同士愛し合うべきであることをよくわきまえ、最前の道においては、すべてを信じ、すべてに恵をもち、すべてに耐え、けっして堕落することなく進んでゆこうではないか。』(121)

 けんめいに勉強したが、フインセントはついに大学入試をやめる。「ぼくのように貧しいひとたちに平和を与え、かれらがこの世の生活に安らぎをうるようにする仕事にたずさわりたいと思っている人間にとってこんな恐ろしい勉強が必要だとあなたは本気で信じていますか」家庭教師になげつけたことばだ。
 当時の彼のことを知る「本屋の店員としてのファン・ゴッホ」という章がある。「かれは魅力のある若者ではなかったのですよ。あの小さな、細いじっと見入るような目をもったかれは、実際、いつも少しとっつきわるいところがありました。」「しかし、そんな風には見えなかったが、かれは確かにひとのためによく働く人で、体も非常に頑丈だった。」「当時は、だれ一人としてフィンセント・ファン・ゴッホが大へんな才能の持主だなどとは思いもしませんでした。」… 本来やるべき仕事をせず、聖書をフランス語、ドイツ語、英語に訳し、ときとして小さなスケッチを描いてる。それも無邪気なペン描きで笑い出すような代物だった。書籍商売の知識ももってなかった。叱られても別になんとも気にかけない様子。食べることにも興味なく、自分の部屋は鋲をはった絵でいっぱい。宗教が頭の中を占め、かれの余暇のすべてを奪っていた。日曜はいつも教会へいってた。誰ともつき合わず、いつも一人だった。誰もが“あれは変わった男でした”という。苦行者みたいな生活をしているかれの、たった一つのぜいたくはパイプ煙草だった。
 いまの日本のフツーの若者像とどこがちがうだろう。教育もうけず、仕事にもつかず、職業訓練もうけないニートについて、ひところメディアはかまびすしかった。「自分が本当にやりたいと思うことが見つからず」が特徴だとも指摘された。一見ゴッホにこそあてはまりそうな定義だが、しかし彼が画家になる決意をするのは、このあとすぐの1880年7月、27歳のときである。 
 いまふうに表現すると、若いとき迷う力、遠回りする力、自分しか信じない力こそ自己形成にとってかけがいのない資質なのだということだ。

『日が暮れかけている。ぼくの窓から見た構内の眺めは全くすばらしい。ポプラの小さな並木道があって、木立のすらっとした形、細い枝々などが灰色の夕空を背景に浮き出して実に繊細な感じだ。それからイザヤ書に記された「古い池の水」のように静かな水のなかに海軍工廠の古い建物が立っている。その建物の水際に近い壁はすっかり緑色になって、風雨にさらされている。遠くの下手には小さな庭が見えて、周りの垣根にはばらの茂みがからみついている。… 遠く、アチェの向かいのドッグのなかには船のマストが何本か見える。真黒や、灰色や、赤などに塗られた何隻かの砲艦だ。いま、あちこちのランプがともっている。ちょうどいまベルが鳴って、労働者たち全体の人の波が門に向かって吐き出されつつあるところだ。同時にいま点燈夫がやってきて家の裏手の構内の外燈ランプを点火している。』

 これはテオに送った手紙(1877年12月4日)のなかからのものである。かれの初期のころのデッサンを彷彿とさせる。日が下りかけようとするひとときの、工場街の小さな動きがストップ・モーションのように見てとれる。朽ちかかった建物、艦船の色と対称的な街燈ランプのかぼそい光。構内から出てくる労働者のざわめき。文章の力でここまで風景描写ができるかれのものを見る眼のたしかさが木炭紙やキャンバスにうつされる日はそう遠くない。

 わたしが引用している本は『ファン・ゴッホ書簡全集』(みすず書房)全六巻で、1969年11月15日第一刷発行、1974年12月20日第四刷発行となっている。監修者小林秀雄、滝口修造、富永惣一、B判上製本である。大部で高価な本だったから、購入するときはかなりの決断を要したのだと思う。
 ゴッホの手紙は、序文にもあるとおり「どんな人にとってもすばらしい読みもの」である。自分のこともほかの人のことも率直、平明に語り、おもしろい。いきいきとした描写、観察、意見の説明は、絵と同様な天稟というしかない。膨大な量のこの書簡を残し管理してくれたテオの奥さんであったボンゲル夫人とテオの息子に感謝である。(引用文のうしろの数字は、手紙の通し番号である。) 

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清水 皓毅(しみず・こうき)
株式会社エイデル研究所 主幹
福祉経営研修センター 常務理事

北海道生まれ。中央大学経済学部卒業、産業経済関係の出版社を経てエイデル研究所設立に参画。賃金、労務管理、人
事管理等のコンサルティング、各種調査の企画実行担当。
社会福祉分野では、全社協「福祉サービス従事者の標準研修プログラム検討委員会」、同「市区町村社会福祉協議会管理職員研修カリキュラム検討委員会」、同「ボランティアコーディネーター研修プログラム研究委員会」など、福祉人材の養成研修に関する各種委員会に参画。
全国社会福祉協議会をはじめ、各都道府県社会福祉協議会および福祉施設の経営者研修などの指導、講演に従事。

紹介された本(登場順)


『ファン・ゴッホ書簡全集』
監修者小林秀雄、滝口修造、富永惣一
B判上製本
みすず書房
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